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竹林院 (真田信繁正室) : ウィキペディア日本語版
竹林院 (真田信繁正室)[ちくりんいん]
竹林院(ちくりんいん、生年不詳 - 慶安2年5月18日1649年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。真田信繁の正室(『当代記』『左衛門佐君伝記稿』)。
大谷吉継の娘〔。信繁の嫡男の大助(真田幸昌)・次男の大八(片倉守信)・6女の阿菖蒲(片倉定広室)・7女のおかね(石川貞清室)らの母〔。
==生涯==
本名に関しては、大谷吉継が文禄2年9月吉日に大宰府天満宮に寄進した鶴亀文懸鏡の銘に吉継の家族名が列挙されており、「東・小石・徳・小屋」のうち、東は吉継の母親、小石は吉継の妻、徳と小屋が吉継の娘であることから、竹林院の実名は「徳」か「小屋」のいずれかであることがわかる〔宮本義己「大谷刑部と豊臣秀吉」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)79頁〕〔宮本義己「五つの謎から解き明かす智将の素顔」(『歴史街道』227号、2007年)〕。
吉継が病に伏し、政権離脱したとみられる文禄3年(1594年)頃以前の天正年間に真田信繁に嫁いだとみられ〔、小田原征伐前後ともいわれる〔宮本義己「大谷刑部と豊臣秀吉」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)79頁〕。
信繁が真田家の人質として秀吉のもとに遣わされていたから、秀吉の上意による政略結婚といえ、有力奉行である吉継と縁者との結びつきは真田家の豊臣政権下の基盤強化に貢献することになる〔宮本義己「大谷刑部と豊臣秀吉」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)79頁〕。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで父と夫が西軍につき、彼女は義父・真田昌幸の正室と共に実父の吉継に保護されていた。戦後は信繁に随行して九度山和歌山県九度山町)に幽閉される〔。九度山での生活は厳しかったらしく、伝承では彼女自ら上田地方の紬技術を応用した真田紐を考案したとされ、家臣たちに行商させて、生計を支えていた。ただし徳川方の監視は厳しかったが、九度山で長男と次男を産み〔、さらに他の側室の子も引き取って養育しており(『真田系譜稿』、『先公実録』より)、家庭的には恵まれていたようである〔奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)65頁〕。
慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では夫と共に大坂城内に拝領した屋敷に入る〔。しかし、慶長20年(1615年5月7日大坂夏の陣で信繁が戦死すると、子女を連れて大坂城から落ちるが〔、徳川家康に命じられた紀伊藩主・浅野長晟の捜索により、5月19日に紀伊伊都郡で娘あぐりと3人の侍に警護されて隠れていたのを発見され、5月20日に京都の家康に引き渡された(『浅野家旧記』)(『駿府記』)〔奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』(新人物往来社、2000年)66頁〕。信繁が秀頼から拝領し、大坂入城直前に渡たされていた来国俊の脇差と黄金57枚は没収となり、長晟に下賜されてしまうが〔奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』(新人物往来社、2000年)67頁〕〔、赦免され剃髪する。石川貞清に嫁いでいたおかねの保護を受けたらしく、その後は京で暮らしている〔。
慶安2年(1649年)5月18日に京都で亡くなる(『当信寺過去帳』)〔。戒名「竹林院殿梅渓永春大姉」、墓所は臨済宗妙心寺塔頭大珠院に信繁、幸昌と共にある〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「竹林院 (真田信繁正室)」の詳細全文を読む



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